ウチの父親は厳しかった。
正確に言うと、気が短い父親だったので、ちょっとしたことでよく怒られた。
口で言うだけではなく、手も出してきた。
ビンタされたり、頭にゲンコツされたりね。
最近になって思う。
あれは害でしかなかった、と。
怒られて育ったオレと、怒られなかった奥さんの違い
オレの父と違い、奥さんのご両親はいたって温厚だ。
見るからにそうだし、奥さんに聞いてもそうだ。
何かしても厳しく言わないし、まして娘に手をあげることなど一度もなかっただろう。
そんな奥さんとずっと一緒にいると、痛感する。
オレは今でも、怒られることを恐れている、と。
何か言うとき、何かするとき、父に怒られていたことをついしないようにしてしまうのだ。
結婚するまで気づいていなかったが、奥さんと比べて自分の中に言ってはいけない、やってはいけないことが非常に多いのがよくわかった。
また奥さんがそれをすると、すぐに不機嫌になってしまうのだ。
冷静に考えると、不機嫌になるほどのことを言われたわけでも、されたわけでもない。
ただ昔、自分が怒られたことというだけだ。
父親の呪縛が、未だ残っていることをひしひしと感じる。
子どもを厳しく育てるべきではない
オレは大学で上京して以来、年に数回しか実家に帰らない。
しかも母はまだしも、父に連絡することはほとんどない。
もう人生の半分以上は一人、もしくは結婚して作った自分の家族と暮らしている。
それでも父に怒られたことだけが、未だオレの人生に影を落としている。
刻み込まれた呪いのように、「これを言ったら怒られる」「あれをしたら怒られる」と、もうそんな必要もないのに怯えている。
オレは思う。
子どもを厳しく育てるべきではない。
厳しく育てたら、その記憶が一生子どもの人生にまとわりつく。
主体的に選んだことではなく、親に怒られたことをただ守り、怯えるような人生になりかねない。
上手く行かなきゃ行かないで、失敗したら失敗したらで、そのときそのときどうすべきかは子どもが考えればいいのだ。
考えられなければ、頭ごなしに言うのではなく、一緒に考えてあげればいいのだ。
親があぁだこうだ、厳しく言う必要などないのだ。
「子どものためを思って」と言う人もいるかもしれないが、子どもの人生において何が正しくて、何が間違っているかなど、だれにもわからない。
本人が決めるしかない。
いい大学出て、いい会社入って、傍から見たらどんなにいい人生であっても、「こんな人生やってられるか!」と自分がドロップアウトしてるからこそ、よくわかる。
よっぽど危ないことは厳しく言わなきゃいけないこともあるかもしれない。
だが、そんなことはそう多くはない。
あとは子どもの好きにさせたい。
あぁだこうだ言わなくていい。
怒ることは最小限にしたいし、絶対に手をあげることなどしない。
賛否両論あれど、オレは子どもを厳しく育てない。
絶対にな。