オレが愛してやまない森博嗣先生の推理小説には、ある特徴がある。
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殺人を犯した犯人の動機があまり語られないことだ。
よくある推理小説だと、犯人が殺人を犯さざるを得なかったそれなりの理由が語られる。
しかし、森先生はあまり触れない。
それどころか、作中で「動機なんて考えたって意味がない」と何度となく書かれている。
その理由が興味深い。
どんなに事情があっても人は殺さない
人を理解しようと思ったら、自分に置き換えるしかない。
つまり、自分が相手と同じ立場に置かれたときどうするか、想像するということだ。
推理小説で言えば、自分が犯人と同じ事情があったとすれば、たしかに殺人を犯すかもしれない…と思えれば共感できる。
いやいや、殺人まではしないなぁ…と思ったら共感できない。
森先生が動機に触れないのはそれが理由。
大半の人は、いかなる状況に置かれても、殺人まではしない。
どんなに重い事情があるにせよ、複雑な家庭に育ったにせよ、しない。
難しい話ではない。
殺人の発生率を見るだけで十分わかることだ。
ワイドショーなどでは、犯人の動機や育った環境などを根ほり葉ほり調べるが、あんなのは無意味。
同じような育ち方をして、同じような事情があったとしても、99%以上の人は人を殺しはしないからだ。
殺人を事実として、観察はできる。
だが、共感することはできないし、理解することもできない。
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理解できない人は理解しなくていい
これは別に殺人に限った話ではない。
自分が相手と同じ立場に置かれたとき、相手と同じようにしない場合、その人のことは理解できない。
…ということを、先日触れた頭おかしいババアからのメールを見て思い出した。
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ブログ読んだだけの赤の他人が、結婚してようが子どもがいようがどうでもいいし、その人がよく本を読むからって本を読まない自分がバカにされてるとは思わないし、まして「お前のブログは薄っぺらい」などとケンカを売るなんて絶対にしない。
そもそも50代、独身のおばさんの立場ってのも、自分と違いすぎて想像すらできない。
がんばって理解しようとしても、返っておかしなことになる。
てか「こんなことを書くと不快に思う人もいるんだな…」なんて思ったら、何にも書けない。
「ケーキおいしい」って書いたら、
「私は病気があってケーキが食べられない!
それにケーキ以外にもおいしいものはある!
お前のブログは薄っぺらい!」
とか言われるようなもんだからね。
何を書いても不快に思う人はいるということを、事実として頭の片隅においといて、それに対してどうするか考えて、淡々と対処すればいい。
ちなみにオレは、オレに連絡するためのコンタクトフォームへのリンクの下に「注意事項をよく読め」と書いておいた。
どう思われようが、オレに関わってこない限り、知ったことじゃないからな。
ということで、まぁ例外もあるのかもしれないけど、基本的には理解できない人のことなど理解できないままでいいと思うのだ。
理解してくれる人に理解してもらえばいい。
理解してくれない人はいるという前提で、どう対処すべきか考えて、淡々とそれを行えばいい。
人を理解しようなんて思わないほうがいい。
どうせムリだから、時間がムダになるだけだ。